色々の人々のうちにきえてゆくわたくし
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出 典 |
鯨の目 |
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評 言 |
作者は俳優。ヤクザ役や悪役で有名だった。昭和十年生、平成二年病没。没後まとめられたのが遺稿句集『鯨の目』である。集中には、自由律と定型が混在している。仮名遣いも一定ではない。どうやらまったくの独学で、思うように句作していった人らしい。掲句はその中の一句である。 思うに、自由律俳句は、その多くがその詠者の境涯のドラマが付いてこないと、さっぱりさえない。井泉水(せいせんすい)の前半生、放哉、山頭火、そして近くは住宅顕信(すみたくけんしん)。不幸を背負い、詩に生きることそのものを懸けたことが、句を支えている。自分自身のなまな生がさらしものになっているが故に、言葉が緊張し、律の自由を活かしきれる。 この成田とて、その人生をたどれば充分に劇的だ。しかし、この句は、俳優の「俳」を詠んだものと見たい。役者はその生涯の中で、人の人生をいくつも演じるもの。それ故に、自分のまわりに勝手にまとわりつくイメージの中で、自分へ不満や不安を感じる時があったかもしれぬ。あるいは、戯れるものとして、そのような生そのものを笑ったのかもしれない。 他の著名な自由律俳人とは異なり、この「俳優」が詠んだ自由律俳句は、自分が演ずることでさらしものにした架空の他者の生を、自分の中にひきうけざるを得ない、という俳優の宿命が生みだした。ゆえに役者の、寂しく笑う姿がよく似合う。だが、考えてみれば、「わたし」もあなたも、人々のうちに消えてゆくのだ。 |
評 者 |
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備 考 |
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