腐敗の最高潮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/03 01:58 UTC 版)
「ワージド・アリー・シャー」の記事における「腐敗の最高潮」の解説
ワージド・アリー・シャーの治世、いよいよアワドの腐敗は極まり、最高潮に達していた。アワドは失政と悪政により、土地は荒廃し、そのうえタールクダールが武装割拠するありさまで、イギリス人らの間にはアジアやアフリカよりも酷いという噂が立っていた。 当時、インド総督のダルフージー侯爵ジェームズ・ラムゼイは「失権の原理」を振りかざし、数多くの藩王国を併合していたが、アワド藩王国にも目をつけるようになった。だが、ワージド・アリー・シャーには多くの子供がいたため、失権の原理の適用は見込めず、別の方法での併合を模索するようになった。 1854年、ダルフージーはジェームズ・アウトラム准将をアワド藩王国の駐在官に任命し、ラクナウに駐在させることとした。彼はすべてを見て、ダルフージーに次のように報告した。 “ 「この国の嘆かわしい状態は、統治者の許すべからざる無関心と失政によるものである。(略)藩王は昼も夜も後宮に入り浸り、放蕩、消費、怠惰に身を落としている」 ”
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