肥後氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:55 UTC 版)
「肥後氏」も参照 ただし、実際は承久の乱後に大隅国の守護職、島津荘大隅方惣地頭に補任された北条朝時の被官である肥後氏(藤原北家勧修寺流と称す)が守護代・惣地頭代に任じられ、名越氏(北条氏支流)が守護職を解任された後も島津荘大隅方惣地頭は名越氏がそのまま継承し、惣地頭代である肥後氏の嫡流が南北朝時代に多禰嶋を名字としたと考えられる。 もっとも、5代時基より前代は史料がはっきりしない。 鎌倉幕府滅亡後も在地領主(国人)として島を支配。6代時充の頃から「多禰嶋(種子島)」を称する。1408年(応永15年)、8代清時は守護島津元久より屋久島を与えられる。
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