聖コンスタンティン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 14:02 UTC 版)
「コンスタンティン3世」の記事における「聖コンスタンティン」の解説
その後、伝説では、コンスタンティンは罪を悔い改めて修道士になり、聖コンスタンティンと讃えられるようになった。しかし、これには幾つかの人物との混同があるという説がある。 10世紀に書かれた『カンブリア年代記』によれば、西暦589年に、コンスタンティヌスなる人物が神に悔い改めたという(ちなみに、『カンブリア年代記』ではアルトゥル(=アーサー王)の没年は西暦537年である)。また、デヴォン州やコーンウォール州には聖コンスタンティン由来の少なくとも五つの教区が現存する。多くの人はこれをギルダスがコンスタンティンを叱責した成果だと考えている。また、11世紀の僧侶リケマルクス(英語版)は、『聖デイヴィッドの生涯』で、コーンウォール人の王コンスタンティヌスが、聖デイヴィッドに帰依して王位を捨て、僧籍に入ったと伝えている。 トーマス・オサリヴァンによれば、コンスタンティンは当時よくある名前で、聖コンスタンティンは少なくとも二人のコンスタンティン、北のコンスタンティンと南のコンスタンティンが混同された結果であるという。「北のコンスタンティン」は6世紀末のストラトクライド(英語版)の王子コンスタンティンで、『カンブリア年代記』に記載されているのはこちら。「南のコンスタンティン」は『聖デイヴィッドの生涯』に登場するコンスタンティンで、おそらくは6世紀初頭の本項目のコンスタンティンと同一人物であるが、あるいはこれもまた別の人物と混同された可能性もあるとしている。
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