結城浜の戦いとは? わかりやすく解説

結城浜の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/30 06:42 UTC 版)

結城浜の戦い(ゆうきはまのたたかい)は、治承4年9月4日1180年9月24日)に下総国であったとされる合戦であるが、『源平闘諍録』にある説話である。千葉常胤一族と千田荘領家藤原親正(政)の間の合戦で、千葉・千田合戦とも呼ばれる。


  1. ^ 『吾妻鏡』が、9月4日参上したのは安西景益のみであり広常の所へは行くべきではないとしているのに対し、『源平闘諍録』では、広常が当初より参陣していたようになっている。また、この間の頼朝の行動や諸豪族の動向については全く触れておらず、それ以前の石橋山の戦いについての記述もない。
  2. ^ 『吾妻鏡』の広常像には曲筆が混じるとされるので、『源平闘諍録』の記述は貴重である。
  3. ^ 後に千葉常胤の次男師常が相馬御厨を領し、その後の相馬氏の祖となるが、この時点では平常澄の子常清が相馬を名乗っている。
  4. ^ 小権介の誤りで、常顕は上総広常の子。
  5. ^ 常胤の嫡男で「胤正」とも。新介とあるので下総権介の地位を譲られ、この時すでに千葉氏当主であったものと考えられる。
  6. ^ 後に胤信は、現在の成田市の旧大須賀村付近を領し大須賀氏の祖とされることになるが、ここでは千葉荘内の一村郷である田辺田(田部田)を名乗っている。
  7. ^ 国分は現在の市川市国分で、胤通のみ千葉荘以外の地名を名乗っている。下総国府に近い「国分」に下総権介としての千葉氏の屋敷があったという想定が可能である。
  8. ^ 常胤の三男胤盛の子、「武石」は現在の千葉市花見川区武石町に比定される。武石氏も後に東北地方に広く勢力を拡大するが(亘理氏)、この時期には千葉荘内の村郷領主に過ぎなかった。
  9. ^ 常胤に従った武士たちは子や孫であり、その名字の地はほとんど千葉荘内に限定され村郷級の小領主に過ぎず、上総氏の武士団との規模の相違は大きいことが判る。
  10. ^ 『吾妻鏡』治承4年9月14日条は「千田庄領家判官代親政」、『尊卑分脈』藤原氏・為光公流では「親雅」(阿波守・皇嘉門院判官代・号智田判官代)とする。
  11. ^ 現在の匝瑳市の北部に「内山」がある。
  12. ^ 『吾妻鏡』は、千葉氏一族の頼朝軍への参陣に際し、胤頼の主張により後願の憂いを断つため下総目代を殺害したことが記され、藤原親政の来襲はその報復とされているが、『源平闘諍録』には下総目代についての記述はない。
  13. ^ 武射は、下総の匝瑳郡に隣接する古代以来の上総の郡名で、後の南郷村、現在の山武市に上横地、下横地の地名がある。
  14. ^ 千田荘から武射郡を通り千葉に抜けるとすると鹿島川を渡らなければならないが、鹿島川流域の現在の八街市千葉市東部、佐倉市の一部に白井荘があった。「馬渡」の地名は現在の佐倉市にあり鹿島川の渡河点である。
  15. ^ 成胤も千葉荘内の村郷である「加曾利」を名乗っている。
  16. ^ 『吾妻鏡』によれば、祖母(胤常の妻、秩父重弘の娘)は寿永元年(1182年)になお健在であり、成胤を養子とする所伝にも確証はない。養子であるから祖母の葬送のことにあたったというこの文章の論理がわからず、また正統性を主張するには不利な養子説が敢えて採られることも注目に価する。この辺りには説話構成者の作意が感じられるが、その作意が何を目的にしたものであるかについては様々に推測されている。なお、父の胤正は建仁3年(1203年)に63歳で没しており、当時としては年齢差が大きいので子がないため成胤を養子に迎えたが、その後実子の常秀が生まれたという可能性は否定できない。
  17. ^ 『千葉大系図』によれば成胤は久寿2年(1155年)生まれで、時に25歳となるが『千学集抄』では17歳とする。
  18. ^ 下総と上総の堺の川。千葉荘と上総を隔てる村田川と、千田荘と上総を隔てる栗山川があるが、合戦が千葉荘であったとすれば村田川であろう。
  19. ^ 現在の多古町に「次浦」の地名がある。千田荘と上総を隔てる栗山川の下総側に位置する。
  20. ^ 北条時政あるいはその子の義時を指すものと考えられるが、他の『平家物語』などでは、時政親子は頼朝と別れ甲斐に向ったとしており、『源平闘諍録』独自のものである。
  21. ^ 『吾妻鏡』では安房を発った頼朝は、下総国府で千葉一族と対面するので千葉の軍議はなく、千葉を通ったか否かも不明である。また下総国府での対面の際に藤原親政が囚人として引き出されたとしており、追討はしないとする点も異なる。
  22. ^ 千葉荘を妙見社に寄進するという意味ととらえられるが、千葉荘の領家は八条院領であり、頼朝が荘園を勝手に寄進するのは簒奪者の政権として生まれた東国政権の性格を如実に示すもので、事実とすればその早い事例となる。
  23. ^ 以下、成胤と親政の合戦に僮姿の妙見菩薩が現じたことについて、千葉氏と妙見菩薩との関係が将門合戦に遡ることを語ったとするくだりは、他の『平家物語』の異本にはないもので『源平闘諍録』の『源平闘諍録』たる所以である。


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