粟野健次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:27 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動粟野 健次郎(あわの けんじろう、元治元年5月18日(1864年6月21日) - 昭和11年(1936年)8月23日[1])は、日本の教育者。
経歴
陸奥国一関(現在の岩手県一関市)出身。新潟英語学校、新潟中学校を経て、文検に合格し[2]1886年(明治19年)に中学師範各学校英語科教員免許状を受け、東京府中学校一等助教諭となった。翌年から第一高等中学校英語教員嘱託、1889年(明治22年)から第一高等学校教諭、1890年(明治23年)から第一高等学校教授を歴任した。東京時代の教え子に、夏目漱石、若槻禮次郎、本多光太郎らがいる[2]。1892年(明治25年)、仙台の第二高等学校教授に転じ、土井晩翠、作家高山樗牛らを教導。1903年(明治36年)からは語学研究のためイギリス、フランス、ドイツに2年間留学した。1925年(大正14年)、退官。同年、第二高等学校講師嘱託になるとともに、名誉教授の称号を得た。
一関藩藩士の家の生まれ[2] だが、廃藩置県による父の失職に伴い新潟県に移る[2]。16歳で上京し、東京中の図書館に3年間通い詰め、古今東西の諸々の書籍を原語で読破した[2]。英語はもとより、ドイツ・フランス・イタリア・ラテン・ロシア・ペルシャ・中国の各語を解し[2]、読書量は抜群に多く博覧強記で、教職に就いてからも、英国出身の英語講師が粟野に教えを乞うほどであった[2]。
粟野観音
東北大学の旧・雨宮キャンパス[3] には、通称「粟野観音」という半跏思惟像があるが、これは粟野が1932年の退任時に、肖像画を作りたいという教え子らの申し出を断り、「肖像画を作るくらいなら、観音像でも建立してはどうか」と提案したことに由来する[2]。粟野観音は、東北大・片平キャンパスへの移設が検討されている(2021年5月現在)[2]。
親族
- 豊島定 - 弟。海軍教授。
- 小野寺恕 - 弟。海軍中将。
脚注
参考文献
- 『御大典記念 岩手県名士肖像録』岩手県名士肖像録刊行会、1930年。
- 『観音になった男』2016年3月、編著・粟野健次郎顕彰会、発行・粟野健次郎顕彰会事務局(岩手県一関市)(非売品)
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