粟島神社 (米子市)とは? わかりやすく解説

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粟島神社 (米子市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/21 08:54 UTC 版)

粟島神社
所在地 鳥取県米子市彦名町1404番地
位置 北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度 / 35.44389; 133.29222 (粟島神社 (米子市))座標: 北緯35度26分38秒 東経133度17分32秒 / 北緯35.44389度 東経133.29222度 / 35.44389; 133.29222 (粟島神社 (米子市))
主祭神 少彦名命ほか5柱[1]
社格 旧郷社[2]
創建 不詳
例祭
  • 春季・4月12日
  • 夏季・旧6月11日
  • 秋季・10月12日[3]
地図
粟島神社
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粟島神社(あわしまじんじゃ)は、鳥取県米子市彦名町にある神社である。淡島神社の一つ。少彦名命を祭神とする。

社誌

度々の火災[注 1]で記録を失っており、創建年は不明[4]

境内は標高36メートル[注 2]の山(明神山[4])になっているが、かつては中海の小島のひとつだった[5]。島(山)全体が神山とされ、古い時代には社殿は山麓にあったとされている[5]

戦国時代尼子氏の伯耆侵攻の際に社殿が焼失し、後に尼子氏が再建し社領を寄進した[2]。そのあと戦国期を通じ、この地方ではしばしば支配勢力が変わったが、時の支配者たちの庇護を受けた[2]

江戸期になると、元禄期(1688年~1704年)に社殿が焼失し、翌年再建されるにあたり、それまでの山麓から山頂へ移された[2]。その後、宝暦期(1751年~1763年)に粟島周辺が干拓され、「彦名干拓地」一帯と地続きになった[5][1]

なお、江戸期には「粟島大明神」として祀られており、明治維新の際に、境内の諸社を合祀して粟島神社に改名した[2][4]明神神仏分離令を参照。)。また、明治元年には西園寺公望が参詣した。その後、神社の整理統合が行われる中、大正時代に近隣の北野神社(後藤地区)・余戸神社(下粟島地区)を合併した[2][4]

1936年(昭和11年)には社殿が再築され、現在に至る[3]

伝承

由緒

733年天平5年)の『伯耆国風土記』(逸文)[1][注 3]では、こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地でを蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている[2]。(つまり、粟島は少彦名命の現世での最後の地、ということになる[2]。)

『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされている[2]

民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける[6]

米子の由来

粟嶋の分限者には子がなく、88歳の米寿を迎えたときに初めて子を授かったことから、「米子」の地名が発祥したと伝えられている[5]

八百比丘尼

地元の漁師の娘が、それと知らずに人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまった。娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟「静の岩屋」で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかった。娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれた[5]

公共財

粟嶋神社社叢

干拓地である周辺地域や中海のなかでは例外的に、山全体にスダジイなど高木から中低木が生い繁り、この地域としては珍しい照葉樹林を形成している[5][7]。島全体が原始林とされ、特に西斜面に群落を形成してるシャシャンボツツジ科)が大型化しているのも特徴的で、全体が「粟嶋神社社叢」として鳥取県天然記念物の指定を受けている[5][7][1]

粟嶋秋月

文政期に福島林仙という米子の文人が、「米子八景」と称する一連の和歌を詠んだ[8]。このなかで粟嶋は次のように詠まれている。

うき雲を はらひし風を あは島の しまにのこして 月ぞすみける — 福島林仙、米子八景[5]

大正期になると、米子八景をもとに「錦海八景[注 4]」が定められた。粟嶋からの中海の水面に映る秋の月夜は「粟嶋秋月」と呼ばれる名景で、粟嶋全体は米子市の名勝に指定されている[5]

注釈

  1. ^ 少なくとも3回、永平年間(1504年~1521年)、元禄2年(1689年)、大正11年(1922年)の火災が記録に残されている[1]
  2. ^ 現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」では36メートル、『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』(1982年)では38メートルなどと、資料により若干の差異がある。ここでは米子市による現地案内板に従った[5][2]
  3. ^ 奈良時代のものとされる各地の『風土記』が知られているが、伯耆国の風土記そのものは伝わっていない。しかし鎌倉時代初期の『釈日本紀』には、『伯耆国風土記』からの引用の形(逸文)で一部が伝えられている。ただし引用元が正しく奈良時代の風土記であるかについては諸説ある。
  4. ^ 「錦海」は中海の雅称。

出典

  1. ^ a b c d e 『鳥取県大百科事典』p33 粟島・粟島神社
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p86
  3. ^ a b 現地案内板「粟嶋神社」 2013年8月8日閲覧。
  4. ^ a b c d 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p727-728
  5. ^ a b c d e f g h i j 現地案内板「粟嶋神社の自然と伝説」(米子市) 2013年8月8日閲覧。
  6. ^ 『鳥取県の民話』p18-22「天からおちた小人の神さん」
  7. ^ a b 鳥取県教育委員会事務局文化財課文化財係 とっとり文化財ナビ 粟島神社社叢 2014年10月2日閲覧。
  8. ^ 国土交通省 中国地方整備局 出雲河川事務所 錦海公園2014年10月2日閲覧。

参考文献

外部リンク




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