籠城の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
清朝軍によって襲撃・夜襲を仕掛けられることはあったものの、時折休戦が差し挟まれ、その間公使団と清朝とは話し合いをもったため、休息することが可能であった。特に7月17日以降から北京陥落の数日前までは、比較的穏やかな休戦状態が維持継続され、尽きかけた食料・弾薬を調達することもできた。8月11日から14日までは再び清朝軍の攻勢が強まったが、8月14日の午後ついに援軍が来て2か月弱の籠城戦は終わりを告げた。 この籠城戦において、どの国も犠牲者を出した。籠城を余儀なくされた外国人は925名に上るが、戦死者は20名ほどであった。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、各国の中で最も死者率が高かった。中国人クリスチャンは、18名が亡くなっている。
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