簒奪前夜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:12 UTC 版)
権勢を拡大した莫登庸は昭宗を支配下に置くべく、宮廷に派遣した侍女を通して昭宗の一挙一動を逐一監視・報告させるなど傲慢な態度を取った。これに耐えかねた昭宗は1522年、首都の昇龍を密かに脱出し、山西に拠点を置き莫登庸と対立する鄭綏の下に逃亡した。これを知った莫登庸は「昭宗は奸臣に唆されて身柄を連れ去られた」として、昭宗の弟であった黎椿(恭皇帝)を新たな皇帝として擁立した。 昭宗は当初大きな勢力を持っていたが、佞臣である宦官の范田が保身のために鄭綏の部下の殺害を昭宗に勧めるなどしたため、鄭綏との関係が悪化した。莫登庸は昭宗の陀陽王への降格を宣言し、1525年にはついに昭宗の身柄を奪い、昇龍に監禁した上で沛渓伯范金榜に命じて殺害した。またこの頃既に帝位簒奪の意思を固めていた莫登庸は、陳真の息子の一人の陳実を弘休伯に封じる事で、旧陳真勢力の支持獲得を図った。さらに1527年、恭皇より九錫の授受と安興王への封爵を受け、また莫登庸を周公旦に準える賛辞の詩が上奏された。並びに群臣によって恭皇による禅譲の建議が行われ、この場において黎朝への忠誠を貫いた大臣たちは莫登庸を侮辱し、その者たちは一人残らず処刑された。
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