簗田氏と水海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/27 16:43 UTC 版)
簗田氏は南北朝時代後期に鎌倉公方の奉公衆となり、下野国(栃木県)の梁田御厨から下河辺荘に移住した。古河公方の時代には、下河辺荘の関宿と水海の両方を支配したことが分かっている。支配を始めた時期の前後関係は不明確であるが、もとは水海を本拠とし、享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱の中で関宿城を築いて、関宿に進出したと考えたほうが良さそうである。 傍証として、簗田持助が関宿に移封されたとき、水海にあった古い寺院(吉祥寺・実相寺・昌福寺)も持助に従って移転。関宿に同じ寺を建てたとする伝承が、水海・関宿双方の各寺院に残っていることも挙げられる 。以後は、嫡流の関宿簗田家と支流の水海簗田家に分かれ、関宿城が関宿簗田家の本拠となった。
※この「簗田氏と水海」の解説は、「水海城」の解説の一部です。
「簗田氏と水海」を含む「水海城」の記事については、「水海城」の概要を参照ください。
- 簗田氏と水海のページへのリンク