第三回旅順閉塞作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:07 UTC 版)
「相模丸」は第四小隊に配され、12隻をもってする閉塞では中央部に沈没させる予定であった。1904年5月2日、閉塞隊は悪天候に妨げられ分裂状態となるなか、「遠江丸」、「小樽丸」、「江戸丸」、「愛国丸」そして「相模丸」の五隻は自然に一隊を形成し湾口に向かう。しかしロシア軍に発見され激しい迎撃を受ける。「相模丸」乗員は戦後まで帰還するものがなく、旅順開城後に捕虜となっていた9名によりその顛末が明らかとなった。相模丸は防材を突破して湾口に進入し、湯浅は目的地点に到達したものと認め、「相模丸」を爆発させ総員退去を図った。5月3日午前3時過ぎのことである。この時まで乗員に戦死者はなかったが、激しい風浪に加え銃撃を受ける中、「相模丸」の沈没の際に発生した旋渦のため、移乗した端舟は転覆し湯浅は戦死した。1905年(明治38年)11月、湯浅、「朝顔丸」指揮官・向菊太郎少佐、「佐倉丸」指揮官・白石葭江少佐ほか36名がロシア軍によって白玉山西麓に埋葬されていたことが判明した。
※この「第三回旅順閉塞作戦」の解説は、「湯浅竹次郎」の解説の一部です。
「第三回旅順閉塞作戦」を含む「湯浅竹次郎」の記事については、「湯浅竹次郎」の概要を参照ください。
- 第三回旅順閉塞作戦のページへのリンク