竹来三社とは? わかりやすく解説

竹来三社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 09:03 UTC 版)

阿彌神社 (阿見町竹来)」の記事における「竹来三社」の解説

郡郷考に「高来祠」の記述として「相殿三神にて竹来三社と称す」とあり、古くは三祀ることから「竹来三社」の称があった。 新編常陸国誌及び明治神社誌料には、この称についての言及はない。 大日本地名辞書は「郡郷考云」として言及している。 茨城県神社写真帳には「其合祀する二神貞観2年(或云仁和3年各々人に憑(よ)り廻戸の邑及び大室の邑に祀らる。この二社と当社合せて竹来三社といふ」とある。 茨城県神社写真帳記述は、「竹来三社」を高来祠の別称とする郡郷考の記述異なり大室社と廻戸社を合わせた三社総称解するものになっている。 郡郷考には「又一年村中といふ地の荒開墾するとて宮居の趾の礎石厳存せるを見て其事を罷(やめ)たりと云ふの名に拠は武甕槌天兒屋根二神とも後に配祭せしにや」ともあり、村内「雷」という荒蕪地に神社礎石発見されたことから、普都大神経津主神)は当社に、健御之男命はその「雷」の地に、天兒屋根命はまた別の地に祀られていたのではないかとしている。高来祠のほかに2つの社があり、これを合祀して相殿になったとすれば、「竹来三社」の別称もごく自然なものになる。 竹来三社の総称は、常陸国風土記香島郡の条にある「香島大神」(天之大神社坂戸社、沼尾社)に類似した構図であり、少なくとも神託による分祀以後においては当社は「天之大神社」(鹿島神宮)に相当する位置づけだった。当社室崎神社を結ぶと、延長線上に廻戸城址台地があり、十握神社明治期中郷阿彌神社合併後単立社として現存)に至る。この三社は、社殿向きに至るまで整然とした配置になっている。「香島大神」の認識延喜式神名帳の頃には後退し中世以降東国三社鹿島神宮香取神宮息栖神社)の括り優勢になる古来の「香島大神」の三を(春日神としてではなく鹿島神として祀る社は、茨城県内では竹来阿彌神社のほか、柏田神社牛久市柏田町)、高浜神社石岡市高浜)、樅山神社鉾田市樅山)等にしか残っていない。

※この「竹来三社」の解説は、「阿彌神社 (阿見町竹来)」の解説の一部です。
「竹来三社」を含む「阿彌神社 (阿見町竹来)」の記事については、「阿彌神社 (阿見町竹来)」の概要を参照ください。

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