窒素肥料調査に洋行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 07:57 UTC 版)
1913年(大正2年)近藤会次郎は日本エナメル株式会社(タカラスタンダード)の取締役に就任した。この年の7月に浅野総一郎は、ボーキサイトから硫安(窒素肥料)を製造する事業の調査に、近藤と高峰譲吉をヨーロッパと米国に派遣した。ドイツでハーバー法発明者の意見を聴き、フランスではセルペック博士の硫安工場を見学したが、この事業は時期尚早だと判断した。オーストリアではツアーンディング会社の石綿スレート工場を視察し、日本での製造販売権を獲得して機械一式を購入しオーストリア人技師を雇った。1914年(大正3年)7月に第一次世界大戦が始まったので、ヨーロッパから米国に渡航してゼネラル・ケミカル・カンパニーの窒素肥料工場を見学し、同年秋に帰国した。硫安製造は中止したが、この時にベークライトやオブラートやスポンジ・アイアンの製造法を輸入した。
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