種子島久時 (18代)とは? わかりやすく解説

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種子島久時 (18代)

(種子島榮時 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 09:53 UTC 版)

種子島 久時(たねがしま ひさとき、(寛永16年8月14日1639年9月11日) - 享保7年2月15日1722年3月31日))は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣、種子島氏第18代当主。

幼名は鶴袈裟丸、初名は榮時。通称は三郎次郎、左近、蔵人。

略歴

寛永16年(1639年)8月14日、種子島忠時の子として生まれる。慶安3年(1650年)、藩主島津光久の加冠で元服する。承応元年(1652年江戸に出府し幕府証人となる。承応2年(1653年江戸城将軍徳川家綱に拝謁。同年鹿児島に帰国した。

承応3年(1654年)3月26日父忠時死去。11月家督相続し久時と改名。明暦元年(1655年)世子島津綱久初入部を出迎える。万治3年(1660年)藩主光久帰国許可の謝使として江戸に出府し、江戸城で将軍家綱に拝謁。同年北郷久精の娘と結婚。寛文2年(1662年)江戸に出府し、江戸城で将軍家綱に拝謁。

寛文4年(1664年)名を左近と改める。同年嫡男鶴袈裟丸(久基)誕生。寛文6年(1666年)江戸に出府して江戸城で将軍家綱に拝謁。寛文7年(1667年徳川家康公五十年忌を福昌寺で行った際に、御法事奉行を務める。寛文11年(1671年)大目付となる。延宝3年(1675年)旅家老(藩主の参勤交代に随従する家老)となる。延宝5年(1677年)には名を蔵人と改める。延宝7年(1679年)国老となる。貞享3年(1686年)藩主島津綱貴家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川綱吉に拝謁。元禄元年(1688年)前藩主光久の請いで幕府より乗輿を許可される。元禄8年(1695年)官俸1200苞を賜る。

宝永7年(1710年)隠居して家督を嫡男義時(久基)に譲る。享保7年(1722年)2月15日鹿児島で死去。享年84。法号は世雄院殿日尊大居士。

墓所は種子島氏の二代目の墓所である御拝塔墓地にある[1]

系譜

脚注

  1. ^ 41.種子島家墓地(御坊墓地、御拝塔墓地)”. 西之表市. 2022年8月21日閲覧。

参考文献




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