私立駿東高等女学校の設立発起人・顧問として
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「江原素六」の記事における「私立駿東高等女学校の設立発起人・顧問として」の解説
明治32年(1889年)の高等女学校令公布以降、駿東郡において女学校の設立をめざす機運が高まり、明治33年(1890年)3月26日沼津高等小学校第一回卒業式において、当時の駿東郡長河野鎗治郎が、高等女学校経営の意志があることを表明する。明治34年(1891年)1月9日、河野駿東郡長が町村長会を召集し、高等女学校を郡内に設置することを決定、推進役として調査委員を選出した。調査委員は駿東郡長、松崎郡長、沼津町長、楊原村長、金岡村長の5名である。調査員は、静岡県会・郡会議員などに寄付募集への協力を求めたり、江原素六ほか代議士に創立発起人となるよう依頼状を送った。同年2月25日、高等女学校設立の発起人として有志者の会合が開かれ、江原素六はこれに出席している。 明治34年(1901年)4月に駿東郡長河野鎗治郎を設立者として私立駿東高等女学校が創立されてからは顧問を引き受け、学校運営にも参加した。明治37年(1904年)に設立者河野鎗治郎が辞任すると、江原素六が設立者となった。その後、私立駿東高等女学校は大正8年(1919年)5月に駿東郡立駿東高等女学校と改称され、その後、大正11年(1922年)には静岡県立沼津高等女学校と改称された。
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