神宮寺 (鈴鹿市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 23:06 UTC 版)
神宮寺 | |
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所在地 | 三重県鈴鹿市稲生西2丁目-8-16 |
位置 | 北緯34度50分14.7秒 東経136度33分24.4秒 / 北緯34.837417度 東経136.556778度座標: 北緯34度50分14.7秒 東経136度33分24.4秒 / 北緯34.837417度 東経136.556778度 |
山号 | 福満山 |
院号 | 慈心院 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | (伝)天平年間(729年 – 749年) |
開基 | (伝)行基 |
正式名 | 福満山 慈心院 神宮寺 |
札所等 |
三重四国八十八箇所 18番札所 東海四十九薬師霊場 7番札所 |
法人番号 | 6190005004212 |
神宮寺(じんぐうじ)は、三重県鈴鹿市稲生西にある、高野山真言宗の仏教寺院。山号は福満山(ふくまんざん)、院号は慈心院(じしんいん)。本尊は薬師如来。
歴史
寺伝によれば天平年間(729年 – 749年)行基が伊奈冨神社参拝の時、神社の境内に仏堂や、五重塔を建立したのが神宮寺の始まりとされる。その後、天長年間(824年 – 834年)に空海(弘法大師)が伊勢神宮へ参拝の時、当山で、大般若経600巻を書写する修行を行ったと伝えられている。
往時は、伊奈冨神社の別当寺 として、七堂伽藍が建てられていたが、織田信長の伊勢進攻の兵火により焼失し、現在の地へ移ったという。神社境内には、今も当時の菩薩堂が残されている。
昭和54年(1979年)本堂と庫裏が焼失したが、指定文化財類は、罹災を免れた。
文化財
重要文化財(国指定)
- 木造持国天立像・多聞天立像 大正2年(1912年)8月20日指定
- いずれも足下に踏まえる邪鬼とともに、樟の一材より彫成する。面部は忿怒相で、甲冑、天衣を着け、各々二疋の邪鬼を踏む。多聞天は像高184cm、ほぼ直立し、右手を曲げ腰にあて宝棒を持ち、左手は宝塔を捧げ持ち、左腰部を少し上げ左手に持った宝塔を注視する。持国天は像高179cm、右手に剣をもって腰にあて、左手は胸の辺に上げ、右腰部を少し引き上げ右下方を睥睨する。袖や裾に鋭い翻波式衣文が見られ、平安時代後期もごく前期に近い頃の作とされる[1]。
- 木造薬師如来立像 大正4年(1915年)3月26日指定
- 像高81cm、檜材の一木造。頭部から足元まで堅一材で、両肩から先には別材を寄せる。彩色・漆箔を行わない檀像様の像である。眼は彫眼とし、白毫には水晶を嵌入する。伏し目、童顔で、衣文線は穏やかで彫りも浅く、平安時代後期の作風を示す。右手は施無畏印、左手は垂下して薬壺を持つ、通形の薬師如来像である。台座、光背ともに後補。平安時代後期の作とされる [2]。
三重県指定有形文化財
- 木造男神坐像 昭和37年(1962年)2月14日指定
年中行事
アクセス
- 近鉄 白子駅より西へ約3.5km
- 国道23号白子町交差点より 三重県道41号亀山鈴鹿線を西へ約3km
脚注
- ^ 三重の文化財 木造持国天立像・多聞天立像
- ^ 三重の文化財 木造薬師如来立像
参考文献
- 滝本昭二『三重四国八十八ヵ所霊場』三重四国八十八ヵ所霊場会:44 - 45頁。
外部リンク
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