碧珍郡城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 09:34 UTC 版)
碧珍郡城の戦い(ピョクチングンソンのたたかい)は、高麗および百済、新羅の三国の境界で、尚州から新羅を攻めるのに要衝でもあったので、後百済陣営ではこの城を取ることは後の新羅攻略を有利に展開するために必要と考えられた。そのため、大耶城攻撃にあたって、尚州方面を攻略する別働隊を太子神剣を総司令として率いさせた。 碧珍郡城軍の指揮官は、城主の李悤言(イ・チョルオン)、城主の長子、李永(イ・ヨン)で兵力1000人弱。後百済軍は、神剣(シンゴム)、軍師 能奐(ヌンファン、後百済の伊飡)、能哀(ヌンエ)、朴英規(パク・ヨンギュ)で兵力5000人。 碧珍郡城軍は、城へいたる一本道の両脇に埋伏兵をおき、後百済軍の進路の先に障害物を置いた。障害物を取り除こうとする後百済軍に一挙に火矢を浴びせ、丸太を転がして攻撃した。後百済軍は、軍師ヌンファンに火矢があたり、シンゴムは丸太にあたって一時は立ち上がれなくなるなどのほか多数の兵が死傷した。退却しようとする後百済軍の退路には、油がまかれて火が放たれ、イ・ヨンの率いる部隊からも攻撃を受け、結果的に3000の兵を失い、後は負傷してまともに戦えるのは500未満となる大敗北を喫して退いた。シンゴムは、数度にわたるキョンフォンの伝令にヌンファンに忠告されるも策もなく500未満の兵で決死の覚悟で城に攻め込むが、中途半端に戦い、城門をわざと破らせた碧珍郡城軍は、城内に入ってきた後百済軍の伸びきった隊列に伏兵が一挙におそいかかって全滅させた。シンゴムら指揮官はわずかな兵にまもられてかろうじて城内から脱出した。 被害は後百済軍全滅。碧珍郡城は、不明。 碧珍郡城は、後百済軍に完勝。繰り返し送られる高麗の使者の対応に感激し、高麗につくことを約束、後百済軍は、5000の兵を失い、なすところなく退却した。キョンフォンは激怒するも、どうすることもできず、将兵にこのことをよく教訓とするように命じた。
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