石冰の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 15:05 UTC 版)
303年、妖賊の張昌・丘沈らが江夏において武装蜂起し、百姓はみなこれに付き従った。張昌らは監軍華宏・平南将軍羊伊・新野王司馬歆らを尽く返り討ちにし、さらにその勢力を拡大させると、配下の封雲を徐州へ、石冰を揚州へ侵攻させた。石冰は揚州刺史陳徽を撃ち破ると、諸郡を全て陥落させた。 12月、周玘は石冰討伐を目論み、密かにかつての南平内史王矩と結託すると、共に呉興郡太守顧秘を都督揚州九郡諸軍事に推戴し、諸州郡に石冰討伐の檄文を飛ばした。これにより以前の侍御史賀循は会稽において挙兵し、廬江内史華譚・葛洪・甘卓ら江東の人士もまた義兵を興して周玘に呼応した。周玘らは軍を進めて石冰が任官した呉興郡太守区山を攻め破り、区山とその諸長史を討ち取った。石冰は周玘挙兵を聞くと、配下の将軍羌毒に数万の兵を与えて周玘を迎撃させたが、周玘はこれを返り討ちにして羌毒を討ち取った。 304年、広陵度支陳敏は広陵から軍を率いて周玘救援に到来し、石冰の将軍の趙驡を蕪湖において討ち取った。2月、周玘は彼と軍を合流させると、建業において石冰を攻めた。3月、石冰は遂に敗走して徐州の封雲の下へ逃亡したが、封雲の司馬張統は石冰と封雲を斬り、西晋に降伏した。こうして揚州・徐州は平定された。周玘は郷里に戻ると軍を解散し、今回の功績を上言せず、朝廷からの褒賞を受け取らなかった。
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