田辺城攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 06:07 UTC 版)
詳細は「田辺城の戦い」を参照 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、西軍を迎え撃った。田辺城は石田三成の家老島清興の親族にあたる小野木重勝や豊臣家の重臣前田玄以の子茂勝が率いる西軍・1万5千人に包囲されると、50日に及ぶ戦となった。戦闘の末、藤孝は自身のもつ「古今伝授の書」が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。なお、7月15日に田辺城に入城した三刀谷孝和の見聞と叙述を記述したものが『三刀谷田辺記』である。子細な城内事情を詳しく伝えており、当時の一般部将の時局認識の素朴な実態を物語ったものである。
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