王塚古墳の位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 08:05 UTC 版)
「王塚古墳 (中央市)」の記事における「王塚古墳の位置づけ」の解説
王塚古墳は出土遺物から5世紀後半の築造と推定され、十分な学術的調査を経ていないが合掌式石室を持つ前方後円墳であると見られる点が特徴とされる。 山梨県における古墳の築造は甲斐銚子塚古墳に代表される4世紀中盤代に曽根丘陵から開始され、5世紀前半には市川三郷町大塚の鳥居原狐塚古墳の築造を経て、5世紀中盤・後半には古墳の築造が甲府盆地各地へ拡散し、王塚古墳の築造はこの時期に位置づけられる。山梨県内における同時期の古墳には笛吹市八代町の狐塚古墳や市川三郷町の大塚古墳、甲府市白井の表門神社古墳が挙げられる。 この時期は列島規模で軍事的色彩が強まった時期で、朝鮮半島を巡る軍事的緊張が高まり、ヤマト王権の東国進出も加速した時期とされる。東国である山梨県においてもこうした動向の影響を受け、甲冑など軍事に関わる副葬品を伴う古墳が出現したと考えられている。
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