滝精一と國華
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 22:41 UTC 版)
この間、『国華』の歴史に大きな役割を果たしたのは高橋の甥にあたる瀧精一である。瀧は1898年(明治31年)から『国華』の編集と経営にあたり、同年に亡くなる高橋を継いで『国華』の発展に尽くした。瀧は1901年(明治34年)の第132号から主幹となり、以後は1945年(昭和20年)5月に72歳で亡くなるまでの44年間主幹として活躍、『国華』の基礎を固めた。その情熱は、国華社社屋が関東大震災で全焼して所蔵原版全てを失っても、僅か半年間休刊しただけで復刊に漕ぎつけていることにも現れている。一方、瀧は天心のように同時代美術の改革に大きな熱意を持たなかったため、『国華』も古美術の学術的研究に雑誌の性格を移していった。『国華』における現代美術に関する記事は1920年初めから数を減らしており、この傾向が1930年代から1950年代にかけて美術史の学術雑誌が増える呼び水になったとする見解もある。
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