浙江の統治者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:51 UTC 版)
1912年(民国元年)1月16日、黎元洪を領袖とする政党民社に、朱瑞は発起人の1人として参加した。この頃から、朱は袁世凱支持を明確に表明するようになる。4月、中華民国臨時政府が北京に遷都したため、同月、朱は浙江省に戻った。5月、民社が他の政治団体と合流して共和党を結成すると、朱もこれに加わった。 その頃、浙江省の軍人は、日本留学経験者の集団と、江南陸師・保定速成学校卒業生の集団との間で、対立が起きていた。朱瑞は後者の集団に擁立され、当時の浙江都督・蒋尊簋(日本留学経験者)を辞職に追い込んだ。7月23日、朱は袁世凱から正式に浙江都督に任命された。 1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、朱瑞は中立を宣言し、革命派に協力しなかったが、積極的な討伐の姿勢も余り見せなかった。このため、袁世凱の猜疑を受けるようになってしまい、以後の朱は懸命に袁を支持するようになる。袁の皇帝即位には早くから積極的支持を打ち出し、1915年(民国4年)12月12日に袁が皇帝に即位すると、朱は一等侯に封じられた。
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