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津田毅一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 04:21 UTC 版)

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津田毅一

津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日1869年1月18日) - 昭和12年(1937年10月5日[1])は、衆議院議員(新政会)、弁護士

経歴

上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。

1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。その後、台南庁長、嘉義庁長を歴任し、在任中はペストの撲滅に尽力した。1916年大正5年)に退官した後は、弁護士を開業した。

1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明吉植庄一郎・木村政次郎・関和知鵜沢宇八柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し[2]、同月に実施された再選挙で当選した[3][4]

日本コナミルク株式会社の取締役を務めた他、関子嶺軌道株式会社代表、新高炭鉱株式会社代表、関子嶺工業株式会社代表、房州漁業株式会社取締役、台湾土地開拓株式会社監査役、台湾総督府評議会員に就任した[5]

栄典

脚注

  1. ^ 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』、衆議院事務局、1940年
  2. ^ 『官報』第1619号、大正6年12月24日。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』407頁。
  4. ^ 『官報』第1622号、大正6年12月27日。
  5. ^ 『昭和十六年度版 拓務内外紳士録』、中央情報社、1941年。
  6. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



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