油ヶ淵の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:30 UTC 版)
現在の油ヶ淵一帯はかつて、洪積台地の開析谷に連なる溺れ谷で、「北浦」と呼ばれる入り江になっていた。 1605年(慶長10年)に本多康俊(西尾城主)が幕命を受け、米津清右衛門を奉行として、矢作新川の開削を行う。木戸(安城市)から米津(現在の西尾市)の間に新たな堀割(長さ12町・幅20間・深さ8間)が築かれたが、矢作川上流から流れる土砂が南の入海を埋めるようになり、鷲塚は半島に変わった。また、湖面は矢作川の河床より低いことから、沿岸に洪水被害が相次ぐようになったため、江戸幕府は1644年(正保元年)に米津 - 鷲塚間に堤防を築き、入海の一部を切断する形で油ヶ淵が誕生した。
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