民主カレン仏教徒軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/03 13:35 UTC 版)
民主カレン仏教徒軍 | |
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တိုးတက်သော ဗုဒ္ဓဘာသာ ကရင်အမျိုးသား တပ်ဖွဲ့ | |
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指導者 | ウ・トゥザナ |
活動期間 | 1994年 | –2010年
活動地域 |
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主義 |
カレン族ナショナリズム 上座部仏教 |
規模 | 6,000 |
関連勢力 | |
敵対勢力 | |
戦闘と戦争 |
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民主カレン仏教徒軍(みんしゅカレンぶっきょうとぐん、ビルマ語: တိုးတက်သော ဗုဒ္ဓဘာသာ ကရင်အမျိုးသား တပ်ဖွဲ့、英語: Democratic Karen Buddhist Army、略称DKBA)は、ミャンマーのカレン族系少数民族武装勢力である。当時ミャンマー最大級の反政府武装勢力であり、キリスト教の影響が強かったカレン民族解放軍(KNLA)から分派した。分派からまもない1994年12月にミャンマー政府と停戦協定を結び、ミャンマー軍のカレン民族同盟(KNU)および同盟勢力に対する攻撃を支援することを条件に軍事・財政的支援を受けた[1]。2010年には国境警備隊として、ミャンマー軍の下部組織となった。
歴史
創設
カレン民族同盟(KNU)およびその軍事部門であるカレン民族解放軍(KNLA)はキリスト教色の強い組織であり、幹部のほとんどをキリスト教徒が占めていた。一方で、一般兵卒のほとんどは仏教徒であり、彼らは蓄財を続ける専制的な組織幹部に反感を抱くことも少なくなかった[2]。
元DKAB(仏教徒軍)のDKAB(慈善軍)幹部は、以下のように語る[3][4]。
「分裂の随分前から、KNLA指導部に対して違和感を持つ仏教徒たちは少なくなかった……私自身もそうだ。彼らのやり方は、まるで傲慢な欧米人みたいだったよ」「彼らは得意気に言ったはずだ。『仏教徒のカレン族に対して、我々がキリスト教の信仰を強要したことはない』と。でもそれこそがキリスト教徒や欧米人の連中のやり方なんだよ。つまり、こういうことだ。どうして、KNLAの支配地にある国内避難民のキャンプには、たいてい教会が建っているのか? 彼らは言うだろう。『この教会を建てるための金を出したのは、我々じゃない。米国人の寄付だ』。医療援助に来る白人たちもそうだ。彼らは、彼らの金でキリスト教徒のための祭りを開く。でも、その祭りにはキリスト教徒しか参加できなかったとしたら……そのキリスト教徒しか参加できない祭りでは普段よりマシな食事にありつけるとしたら。兵士たちの多くを占める仏教徒の子供たちはどう思う? ボランティアでやってきて、子供たちに英語を教える親切な連中が、折に触れてキリストについて説法したらどうだ? 私の考えじゃあ、それは『洗脳』だよ」「その一方だ。兵卒の仏教徒たちが、彼らの敬愛するお坊さんを呼びたいと願ったとき、あるいは仏教徒の支援団体から協力を得るために動いたとき、KNLAの上層部は明らかに冷淡だった。だが、口では言うんだ、これぞ欧米流のやり方だな。『宗教的な問題じゃない。ミャンマー軍に通じているスパイが紛れ込んでいるかもしれないから、精査するための時間をくれ』と……」 — 元DKAB(仏教徒軍)のDKAB(慈善軍)幹部
DKBA創設の直接的契機となったのは、1990年にカレン族僧のウ・トゥザナが、KNUの本部があるマナプロウにほどちかい、Thu Mwe Htaの丘に仏塔を建てようとしたことであった。KNUは仏塔がミャンマー軍の空爆の目標となることを恐れたほか、仏塔の建設事業の背後にミャンマー軍がいるのではないかという考えを持っていた。KNU議長でセブンスデー・アドベンチスト教会信徒のボー・ミャはトゥザナの弟子4人を逮捕し、彼を交渉の場に立たせようとするも決裂し、仏塔建立は中断された。建立に関与した僧侶はThu Mwe Htaから退去し、KNLAのポーターをするように命じられた。また、ある幹部は仏塔の傘(ティ)を撃ち落とすと発言し、キリスト教徒の幹部と仏教徒の将校の間の断絶は強まっていった[1]。
前述のDKAB(慈善軍)幹部は、以下のように語る[3]。
「僧正がマナプロウに仏塔を建立したとき、KNLAの指導部は『白く塗るのは、セキュリティ上の懸念がある。仏塔は目立つので、ミャンマー軍に、我々の居場所を教えることになってしまう。だから、色を白く塗るのをやめるか、仏塔自体を解体してくれ』と言った。これは明らかに、カレン族の多数を占める仏教徒への侮辱だ。第一にマナプロウの駐屯地は、すでにミャンマー軍に把握されていたから、そこに仏塔を建立したからといって、何かがバレる性質のものではない。つまり、セキュリティ上の問題など、実際にはなかったんだ。彼らは、立派な仏塔が『自分たちの教会』を脅かすことを嫌い、また、自分たちを支援する欧米人のキリスト教徒たちの機嫌を窺っただけだ。だが、それよりも、何より私たちが絶望したのは、長らくKNLAを統率し、当時もカリスマだったボーミヤ大将が指導部に対して何の打開策も提案せず、ただ反対案に賛同したことだった」「もし、本当にKNLA指導部が仏教徒のカレン族に対して敬意をもっていたなら、ボーミヤにはいくらでも他のやり方があった。たとえば、問題視された場所の仏塔建立を取りやめる代わりに、別の大事な場所、KNLAにとっての大事な場所での建立を約束するとか。あるいは、キリスト教の従軍牧師に与えていた階級と並び立つように、還俗したお坊さんを従軍僧侶として扱うとか……彼らはミャインジーグー僧正が兵士にお守りを与えることにも好意的ではなかった。そんな状況のなかで、私たちはKNLA指導部の一部が『僧正を暗殺しようとしている』との情報を得た」 — 元DKAB(仏教徒軍)のDKAB(慈善軍)幹部
1994年12月には仏教徒の兵士らが離脱し[2]、ウ・ トゥザナの影響のもとで1994年12月には民主カレン仏教徒協会(Democratic Karen Buddhist Organisation、DKBO)が、1995年1月1日にはDKBAの結成が宣言された。同団体は1994年時点ですでにミャンマー軍と同盟を結んでおり、人類学者のミケイル・グラーヴァス(Mikael Gravers)はこれは軍による謀略であったと論じている[1]。
創設後の経緯
DKBAはキン・ニュンら軍事政権の支持のもとパアン平原地帯を制圧し、カレン州一帯をミャンマー政府の管轄下に取り戻した[5]。一方で、カレン人権グループによれば、DKBAは実際にはほとんどミャンマー軍傘下の民兵組織として機能することとなった[6]。1996年にははやくもミャンマー軍からの補給が減少し、DKBAの兵士は自給自足生活を余儀なくされるようになった。DKBAの兵士は検問所で民間人から「税」を取りたてるようになり、なかにはタイから輸入した、アンフェタミンや盗難車・バイクの密売に手を染めるものも現れた。カレン族を差別するミャンマー軍のビルマ族将校に指揮されることを嫌い、KNLAから離脱したものの再び組織に戻る者、あるいは帰農する者もいた[1]。
2008年2月14日にはタイのメーソートでKNUのパド・マン・シャ書記長が暗殺される事件が発生した[7]。裏付けはないものの、複数の分析者がこの実行犯がDKBA兵士であると論じている[8][9][10]。
BGFへの再編以後
ミャンマー政府は民政移管に向けて、2008年に新たな憲法を交付した。同憲法では国軍が唯一の武装組織であると定められた。2009年4月以降、ミャンマー政府はこの条項に基づき国内の武装勢力を国軍傘下の国境警備隊(Border Guard Forces、BGF)に改編することを要求し、それまでの停戦協定をすべて破棄した。DKBAは基本的にミャンマー軍門に下ることに諾ったが、ラプエー(Lah Pwe)ことボーナッカンムウェー率いる国境開発旅団はこれを拒否した[11]。キリスト教徒であったラプエーは自らの部隊を「民主カレン仏教徒軍」から「民主カレン慈善軍」に改称した[1]。
2024年には、DKBAを前身とするカレン国境警備隊がミャンマー政府と決別し、カレン民族軍(Karen National Army)に改名されることが発表された[12]。
参考文献
- ^ a b c d e Gravers, Mikael (2022). “A Saint in Command? Spiritual Protection, Justice and Religious Tensions in the Karen State”. Independent Journal of Burmese Scholarship 2020, Vol.1: Unknown .
- ^ a b 速水洋子「仏塔建立と聖者のカリスマ ――タイ・ミャンマー国境域における宗教運動――」『東南アジア研究』第53巻第1号、2015年、68-99頁、doi:10.20495/tak.53.1_68。
- ^ a b “両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.9”. VICTORY ALL SPORTS NEWS. 2025年5月3日閲覧。
- ^ “両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.8”. VICTORY ALL SPORTS NEWS. 2025年5月3日閲覧。
- ^ Hayami, Yoko (2008). “Pagodas and Wedding Vows : Buddhist and Sectarian Practices in Karen State”. Kyoto Working Papers on Area Studies: G-COE Series 2008 6: 1-35 .
- ^ “INSIDE THE DKBA” (英語). Karen Human Rights Group (2014年7月24日). 2024年3月7日閲覧。
- ^ “ミャンマー、少数民族カレンの武装組織トップが暗殺される”. www.afpbb.com (2008年2月15日). 2024年3月7日閲覧。
- ^ Radnofsky, Louise (2008年2月14日). “Burmese rebel leader shot dead”. London: www.guardian.co.uk. オリジナルの2013年9月1日時点におけるアーカイブ。 2008年2月14日閲覧。
- ^ “Burmese rebel leader is shot dead”. BBC News. (2008年2月14日). オリジナルの2020年5月10日時点におけるアーカイブ。 2008年3月8日閲覧。
- ^ Radnofsky, Louise (2008年2月14日). “Burmese rebel leader shot dead”. The Guardian (London). オリジナルの2013年9月1日時点におけるアーカイブ。 2008年3月8日閲覧。
- ^ 佐々木, 研「ミャンマー・カイン州の武装勢力による現行和平プロセスへの反応」『東洋文化研究所紀要』第179巻、2021年3月26日、77-103頁。
- ^ News, Karen (2024年3月2日). “All Karen Border Guard Force units to be rebranded as The Karen National Army” (英語). Karen News. 2024年3月9日閲覧。
外部リンク
- Revolution Reviewed: The Karens' Struggle for Right to Self-determination and Hope for the Future Saw Kapi, 26 February 2006, retrieved on 2006-11-30
- Fifty Years of Struggle: A Review of the Fight for the Karen People's Autonomy (abridged) Ba Saw Khin, 1998 (revised 2005), retrieved on 2006-11-30
- Determined Resistance: An Interview with Gen. Bo Mya The Irrawaddy, October 2003
- Photos by James Robert Fuller
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