楊淳稙
(梁淳稙 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 14:11 UTC 版)
楊 淳稙(ヤン・スンジク、朝鮮語: 양순직、1925年5月11日 - 2008年7月24日)は、韓国の政治家、民主化運動家。第6・7・14代国会議員。本貫は清州楊氏、号は心山(シムサン、심산)。漢字表記は梁淳稙とされることもある[1][2]。
経歴
忠南論山出身。公州高校、ソウル大学校師範大学卒。海軍では本部政訓次監・報道室長を務め、海軍准将として予備役に編入された[1][3]。
1961年の5・16軍事クーデター以降は中央情報部部長顧問、1962年よりソウル新聞社長を務めた[3][4]。1963年の第6代総選挙と1967年の第7代総選挙で民主共和党から連続当選し、国会財政経済委員長も務めたが、1969年の3選改憲に反対する活動および4・8抗命事件により民主共和党から除名された[5]。統一主体国民会議選出阻止国民大会準備委員長を経て、1979年のYMCA偽装結婚式事件で咸錫憲らと共に拘束され、10ヶ月の懲役を宣告された[4]。1984年以降は民主憲政研究会組織者、民主化推進協議会副議長、新韓民主党副総裁、統一民主党副総裁、平和民主党副総裁、民主憲法争取国民運動本部常任共同代表を歴任し、6月民主抗争でも拘束された[1][4][3]。
1992年の第14代総選挙で統一国民党から再び当選し、韓日議員連盟副会長、金九先生真相究明委員会副会長を務めた[1]。国会議員退任後は忠清郷友会中央会長、自由民主連合常任顧問、韓国自由総連盟総裁[6]、第2建国汎国民推進委員会共同委員長を歴任した[4]。大韓体育会顧問を務めたこともある[1]。
2008年7月24日に死去。83歳没[4]。
脚注
- ^ a b c d e “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年8月2日閲覧。
- ^ “바로 잡습니다 양순직 한국자유총연맹 총재 한자 성함 外” (朝鮮語). 중앙일보 (2000年10月11日). 2022年8月2日閲覧。
- ^ a b c “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年5月7日閲覧。
- ^ a b c d e “부고 ‘3선 개헌’ 반대… 헌정사 큰 획” (朝鮮語). 서울신문 (2008年7月26日). 2022年8月2日閲覧。
- ^ “共和(공화) 抗命(항명)5議員(의원) 제명”. 동아일보 (1969年4月15日). 2022年8月2日閲覧。
- ^ “양순직 한국자유총연맹 총재” (朝鮮語). 중앙일보 (2000年10月10日). 2022年8月2日閲覧。
- 楊淳稙のページへのリンク