東海寺 (柏市)
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東海寺 | |
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楼門と三重塔
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所在地 | 千葉県柏市布施1738 |
位置 | 北緯35度53分56.57秒 東経140度0分18.68秒 / 北緯35.8990472度 東経140.0051889度座標: 北緯35度53分56.57秒 東経140度0分18.68秒 / 北緯35.8990472度 東経140.0051889度 |
山号 | 紅龍山(紅竜山) |
宗旨 | 新義真言宗 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 弁財天 |
創建年 | 伝・807年(大同2年) |
開基 | 伝・空海、嵯峨天皇(勅願) |
正式名 | 紅龍山東海寺 (紅龍山東海寺、紅竜山東海寺) |
別称 | 布施弁天 松光院 |
札所等 | 関東三弁天 新四国相馬大師88箇所68番 |
文化財 | 本堂・楼門・鐘楼(県文化財) |
法人番号 | 7040005013763 |
東海寺(とうかいじ)は、千葉県柏市布施にある真言宗豊山派の寺院。山号は紅龍山(紅竜山)。本尊は弁才天。寛永寺弁天堂(不忍池の弁天堂)、江島神社(もと岩本院、金龜山與願寺)とともに関東三弁天のひとつに数えられ、地名から布施弁天とも称される。常陸川(現在の利根川)の流路にあった藺沼に突き出した地形に建てられている。
由緒
807年(大同2年)空海が嵯峨天皇の勅願により創建したという。平将門の乱の際、本尊弁財天を松の木の上に避難し難を逃れたことから、松光院とも称される。
江戸時代は利根川の水運が発達していたことから、船で参詣する参拝者が多く、大いに栄えたという。かつては多くの茶屋がひしめいていた。小林一茶もここに訪れている[1]。
明治に入ると水運が衰退し、また日本全国に敷かれた鉄道網も当寺から外れたため、寺運衰微を余儀なくされた。1970年(昭和45年)、寺の改築費を捻出するために、一部の土地を地元の柏市に売却した。この土地は現在、あけぼの山公園となっている[1]。
- 山門(楼門)
総欅造り二階建の「最勝閣」。階下に四天王、階上には釈迦三尊を配置している。 楼門は、文化7年(1810年)の建立で、屋根は入母屋造(いりおもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)である。 一階部分は、漆喰で白く塗り固められていたと推測され、竜宮城の門のような形状である。ただし、この部分は現在はコンクリート製である。また、軒下には、 竜、麒麟(きりん)、亀、松、鶴といった素木造りの彫刻で飾られている点も特徴となっている。 建築の大工棟梁は、布施村の藤十郎。
- 本堂
本堂は数度の戦火により消失したものの、本尊である弁財天を篤信していた時の領主・本多豊前守が98名の大名から寄進を求め、享保2年(1717年)、現本堂を完成させている。本堂内陣の天井には、それら諸大名の家紋を見ることができる。 本堂外陣の天井鏡板の竜は狩野探舟の作品。 唐風の向拝を持つ三方破風造り総朱塗りの絢爛たる大本堂である。
三重塔は釈迦の遺骨(仏舎利)を祀るための施設。布施弁天では、昭和四十八年、38代秀淳大僧正が建立し、釈迦の教えに少しでも近づくためのに建立したと伝わっている。
- 鐘楼堂
全国的にも珍しい多宝塔式の総欅造り。基担は、みかげ石積み八角形、その上に12本の円柱で円形の本体を形作り、その柱頭に十二支の彫刻を配して方位を表現している。設計図は設計者・伊賀七の子孫に完全な形で伝承されている。 鐘楼は、文化15年(1818)の建立と棟札に記されている。八角形(一辺11.4尺・3.4メートル)の石積基壇(基礎)の上に、十二角形に柱を建て、周囲に円形の縁で囲んで、その中央に鐘を吊り下げる形式。 屋根は銅板葺きの入母屋造で、軒下には十二支などの彫刻が巡らせている。 設計者は、谷田部(現茨城県つくば市)の名主飯塚伊賀七、大工棟梁は今関嶺蔵である。
- 境内の紹介
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本堂を見上げる
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本堂正面
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本堂の中
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樹木に囲まれた三重塔
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鐘楼堂(多宝塔式)
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多宝塔独特の構造
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楼門と本堂を結ぶ階段
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左から弘法大師、大日堂、布施観音
文化財
- 東海寺本堂 附 棟札1枚
- 楼門
- 鐘楼 附 棟札1枚
所在地
- 千葉県柏市布施1738
アクセス[3]
脚注
参考文献
- 茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城新聞社、平成元年12月30日、317pp.
- 流山市立博物館友の会 編『楽しい東葛寺社事典(東葛流山研究第34号)』崙書房、2016年
外部リンク
- 東海寺_(柏市)のページへのリンク