東江流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:35 UTC 版)
書の師である高頤斎の書風は、王履吉・独立性易・高玄岱の流れを汲む唐様であった。しかし、佐々木玄竜・文山兄弟・細井広沢・松下烏石など当時一世を風靡していた明朝の書風の一端と受け取られていた。東江は『書学筌』(1757年)や『東郊先生書範』(1758年)などの書論で頤斎流の正統を謳い、玄龍・文山・広沢らを倭俗と切り捨てている。 明和6年(1769年)頤斎が没すると荻生徂徠の蘐園学派の影響を受け、書の復古主義ともいえる古法書学を唱える。同年刊行の『東江先生書話』において流行する明風の書を捨て、魏晋の書体に遡ることを主張した。そのためには古法帖を臨模して書法を会得し、古人の書論を読み気韻を知るべきとした。この主張は友人の韓天寿も感化し、後に二王(王羲之・王献之)を聖典視することに繋がっていく。 「書法を知らぬ者の作った字は読めないが、書法を知った者の字はそれが狂体であろうと張旭・懐素のように読むことがかなう」と述べている。 この古法書学はたちまち江戸を席巻し、東江流として一派をなした。
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