杜亜とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 杜亜の意味・解説 

杜亜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/23 23:20 UTC 版)

杜 亜(と あ、725年 - 798年)は、唐代官僚政治家は次公。本貫京兆府[1][2]

経歴

若くして学問に渉猟し、事物の道理と歴代の成功と失敗のことを言うのを得意とした。至徳2載(757年)、霊武で封章を献上し、行政のことを言上して、校書郎に任じられた。この年、杜鴻漸が河西節度使となると、杜亜は召し出されて従事となり、評事・御史を歴任した。後に入朝して、工部戸部兵部吏部の員外郎を歴任した。永泰末年、剣南で反乱が起こり、杜鴻漸が宰相として山南剣南道副元帥を領し出向すると、杜亜は楊炎とともに判官となった。剣南から長安に帰ると、吏部郎中諫議大夫に任じられた。ときに李栖筠が皇恩を承けて、衆目するところ必ずや宰相となるだろうとみなされていたため、杜亜は厚くこれと結んだ。元載が罪を得ると、杜亜は劉晏李涵ら7人とともにこれを尋問した。大暦12年(777年)、元載の死の翌日に杜亜は給事中・河北宣慰使に転じた。宰相の常袞は杜亜のことが気に入らず、大暦13年(778年)に杜亜は洪州刺史・兼御史中丞・江西都団練観察使として出された[3][2]

大暦14年(779年)5月、徳宗が即位すると、杜亜は長安に召還され、まもなく江西観察使となった。陝州観察使・兼転運使として出向した[4]。11月、河中尹・河中晋絳慈隰都防禦観察使に転じた[5]。楊炎が宰相となると、建中元年(780年)に劉晏が罪を得て、杜亜も連座して睦州刺史に左遷された[6][2]

興元元年(784年)、杜亜は長安に召し出されて刑部侍郎に任じられた。まもなく揚州長史・兼御史大夫・淮南節度観察使として出向した。杜亜は行政事務の多くを補佐役に委ねて、自分は賓客を招いて談論にふけるばかりであった。奢侈を好み、龍舟競漕を楽しんで、舟を早くするために船底に漆を塗らせた。大舟を通すために運河を開き、財政を枯渇させた[6][7]

貞元5年(789年)、戸部侍郎の竇覦が杜亜に代わって淮南節度使となった。杜亜は検校吏部尚書・判東都尚書省事をつとめ、東都留守・都防禦使となった。厚く宦官に賄賂を贈り、自ら河南尹を兼領したいと求めたが、事は果たせなかった。貞元9年(793年)、礼部尚書董晋が代わって東都留守となり、杜亜は長安に召還された。風疾が重くなり、脚や膝を患って、朝廷での謁見に耐えられなかった[8][9]。貞元14年(798年)5月甲午[10]、家で死去した。享年は74。太子少傅の位を追贈された。は粛といった[11][9]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3962.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 5207.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3962–3963.
  4. ^ 旧唐書 1975, pp. 320–321.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 323.
  6. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3963.
  7. ^ 新唐書 1975, pp. 5207–5208.
  8. ^ 旧唐書 1975, pp. 3963–3964.
  9. ^ a b 新唐書 1975, p. 5208.
  10. ^ 旧唐書 1975, p. 387.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 3964.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  杜亜のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「杜亜」の関連用語

杜亜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



杜亜のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの杜亜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS