本多忠誠とは? わかりやすく解説

本多忠誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 04:46 UTC 版)

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本多忠誠
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦11年(1761年)1月
死没 天保3年3月8日1832年4月8日
改名 勇次郎(幼名)、忠誠
戒名 徳照院殿泰岸祥雲大居士
墓所 東京都墨田区向島の弘福寺
官位 従五位下河内守越中守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
陸奥泉藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 父:本多忠籌、母:後藤氏
兄弟 忠誠忠雄忠堅、松浦忠、忠順、荒木忠純、大田原清昭室
正室:板倉勝暁の娘・八百子
忠知、松平忠衛、遠山景祚、忠慎、安藤忠隆、荒木忠寛、忠弟、忠久、秋田貞行、千子(稲葉正盛正室)、俊子(小谷忠貞室)、豊子(荒木忠純養女)
養女:曽根子(山口弘致正室)
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本多 忠誠(ほんだ ただしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名陸奥国泉藩の第3代藩主官位従五位下河内守越中守忠以系本多家6代。

略歴

宝暦11年(1761年)1月、第2代藩主・本多忠籌の庶長子として誕生。正室所生の弟・忠雄が世子となっていたが、天明5年(1785年)に父によって廃嫡され、代わって忠誠が世子となる。寛政11年(1799年)10月23日、父の隠居により家督を継いだ。

藩政においては父の政策を受け継ぎ、農村救済や学問の奨励、さらに藩財政再建を目的とした倹約を行なっている。文化12年(1815年)7月5日、長男・忠知に家督を譲って隠居する。天保3年(1832年)3月8日に死去した。享年72。

系譜

  • 父:本多忠籌(1740-1813)
  • 母:後藤氏 - 側室
  • 正室:板倉勝暁の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:松平忠衛 - 深溝松平家
    • 男子:遠山景祚
    • 男子:本多忠慎
    • 男子:安藤忠隆
    • 男子:荒木忠寛
    • 男子:本多忠弟
    • 男子:本多忠久
    • 男子:秋田貞行
    • 女子:千子 - 稲葉正盛正室
    • 女子:俊子 - 小谷忠貞室
    • 女子:豊子 - 荒木忠純養女
  • 養子




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