本「基本要綱」発表前の土地取得の実態
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「満洲開拓政策基本要綱」の記事における「本「基本要綱」発表前の土地取得の実態」の解説
満州移民事業実施のためには、移民用地の確保が最大の難関であるということは、日本政府も認識していた。そのため前述「試験移民期」には、官有地と不在地主地の取得という方針が、「本格的移民期」になっても「未利用地開発主義」が方針として掲げられていた。結論から言えば、1941年末までに約2,000万ヘクタールの移民用地が収容された。これは、当時の満州国国土総面積の14.3パーセントにあたる。しかし、その土地買収の方法は、帝国主義丸出しの暴力的・強圧的なものであった。中国人は、地券の取り上げを避けるため、それを長持ちの底に隠したり、壁に塗りこめたりもした。これを知った日本兵は、長持ちをひっくり返したり、銃床で民家の壁をたたき割ったりもした。しかも日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8パーセントから40パーセントであった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたではなく、満州各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった。そして、日本政府の方針として掲げられた「未利用地開発主義」は実行されなかった。それは、移民用地として取得された約2,000万ヘクタールの17.6パーセントにあたる351万ヘクタールが既耕地だったことからも明らかである。
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