木古内の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 11:06 UTC 版)
木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。 4月20日未明、木古内口の新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して泉沢(現・木古内町)まで後退した。その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を決め、挟撃を恐れた新政府軍が撤退し、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来(現・北斗市)まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。
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