かげうら‐まさる【景浦将】
景浦將
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景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手、内野手)。
注釈
出典
- ^ a b “猛虎人国記(6)~愛媛県 「ミスター」の嚆矢 景浦将”. スポーツニッポン. (2012年3月27日) 2013年4月3日閲覧。
- ^ “プロ野球70年フォトヒストリー 「闘将」と呼ばれた男 景浦将”. 日本プロ野球機構. 2015年9月24日閲覧。
- ^ “金本知憲氏が戦前の強打者・景浦将氏に思いをはせる”. 日刊スポーツ. (2015年8月4日) 2015年9月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m プロ野球データファイル(ベースボール・マガジン社)第62号
- ^ のちにその左足は骨折していた事が判明している。
- ^ “打点王(1リーグ) - プロ野球”. 日刊スポーツ 2020年3月19日閲覧。
- ^ シーズン記録としては1939年に中島治康が更新。
- ^ シーズン記録としては1939年に川上哲治が更新。
- ^ 歴代1位は1974年の王貞治(読売ジャイアンツ)の.532。
- ^ “【12月9日】1936年(昭11) 沢村栄治VS景浦将、初の「王座決定戦3番勝負」(野球) スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球12月”. 2016年7月7日閲覧。
- ^ 南萬満『真虎伝』新評論、1996年、p.65。この内容は大井広介の著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)からの引用。
- ^ a b c 早坂隆『戦場に散った野球人たち』文藝春秋、2014年、pp.63 - 64。なお戦没地について「カラングラン島」と記した文献もあるが、遺族にも取材した早坂の著書では本文の記述である。
- ^ 2021年8月15日、北海道新聞日曜版2ページ『五感紀行』。
- ^ 二宮清純『沢村栄治と景浦将 かく戦いかく散れり』Number PLUS 1999年8月号、P150-156。
- ^ 『タイガースの生い立ち』pp.50 - 51。
- ^ 『日本プロ野球偉人伝vol.1』ベースボールマガジン社、2013年10月、p.16,93
- ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、p.368。ラッキーゾーン設置以前のプロ野球公式戦は796試合が行われたが、そのうちでランニング本塁打などを除いた「オーバーフェンスの本塁打」は僅か49本しか出なかった。
- ^ a b c 二宮清純 (2012年8月15日). “二宮清純「唯我独論」:第550回 戦争で散った沢村のライバル・景浦将”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2013年4月3日閲覧。
- ^ a b c 『日本プロ野球偉人伝vol.1』ベースボールマガジン社、2013年10月、p.35
- ^ この記録に関しては、当時の選手にここまでの遠投が本当に可能だったのか疑問の声もあり、「114m」の書き間違いではないかという説もある[要出典]。
- ^ “特攻隊員として戦死した2人の選手や景浦將… 戦後74年、戦火に散ったプロ野球選手”. Full-count. (2019年8月15日) 2020年3月11日閲覧。
- ^ なお、1984年に「日本プロ野球50年記念切手」が郵政省(当時)から発行された際には、スイングした景浦の写真を元にしたデザインが採用されている。ただし公式には景浦と称している訳ではなく、ただの「打者」としか紹介されていない。なお、近藤道郞が記した「今日も明日も阪神タイガース!」(講談社+α文庫)61ページには「絵柄は打者の景浦将、投手の沢村栄治」との記述がある。
- ^ 『タイガースの生いたち』PP.51 - 52。
- ^ 『タイガースの生いたち』、p.54。
- ^ 玉木正之「プロ野球大事典」新潮文庫
- ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、p.53。
- ^ 大日本東京野球倶楽部の創設(これが日本初のプロ野球リーグ創設につながった)から数えての年数である。日本初のプロ野球チームは1920年創立の日本運動協会。
- ^ ただし、近藤道郞著、『今日も明日も阪神タイガース!』(講談社+α文庫)61ページには、「絵柄は打者の景浦将、投手の沢村栄治」との記述がある。
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