春や奥座敷につがいの鶴を飼い
作 者 |
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季 語 |
春 |
季 節 |
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出 典 |
露景色 |
前 書 |
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評 言 |
俳句のジレンマは、それがことばで書かれる点に負うところが大きい。ことばであるがゆえに、それは「何かについて書かれている」と考えられがちである。そこに「書かれたこと」は、何かもっと別の「書かれるべきこと」「書きたかったこと」を象徴的に意味している、と。 私たちは、日常的かつ経験的なことから逆算して、俳句が何か「特別な意味」を手元にもたらしてくれる、と打算的に考えがちである。そうでない場合、つまりそのことばの向こう側に届けられた宅配便の箱が空っぽであることを知ったとき、俳句へのモチベーションは廃棄され、俳句の読みは清算される。 掲句の場合、「つがいの鶴を飼い」という非経験的な出来事と、それが「奥座敷」であるという非日常的な空間であるということが、「襖に描かれた鶴なのではないか」「作者の心理に棲みついた鶴なのではないか」などといった経験的「理解」に読みを寄せることで落とし前をつけたいような気にさせてくる。 もちろん、それはこの句の大事な「質感」を決定的に失わせることになるのは言うまでもない。「奥座敷」という日常の深い場所に飼われた二羽の「鶴」のふわふわとした質感も、あるいはその獣としての匂いや、彼らが動くたびに振動する空気感なども。それが作者にとって何を意味するのかは、この句には書かれていないのだが、上五の「春や」というおおらかな季語が、この句の書かれた意味を生成し、馬鹿馬鹿しくも儚い「奥座敷に飼われた鶴たち」の姿をひとつの額縁に収める。 そのとき、凛とした「つがいの鶴」たちはまるでこちらを見つめ返しているようでもあり、それによって初めて、そのまなざしをとても裏切ることのできないような情感が生まれる。その情感こそがこの句の書かれた意味そのものであることに気付かされるのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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