星塚敬愛園にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 10:23 UTC 版)
大島青松園で書いた童話集『銀の鈴』を敬愛園で知られ、文章が達者なことで、転園直後から文章部長、自治会理事、雑誌担当にさせられたが、園内の対立に巻き込まれてしまった。ハンセン病や、隔離政策にも深い関心を示し、色々意見を発表している。職員ではイシガオサム、入園者では馬場さん、改名して「山中捨五郎」および家族としてその息子の林 力など宗教人、行動を、医師では松丘保養園長の荒川巌の予防法反対の意見を高く評価している。1982年に「片居からの解放」を発表したが、その後、ハンセン病国賠訴訟時の意見と同じである。 島の友人である、竹牟礼巳良によると、島や竹牟礼の作品が「新潮」の同人雑誌の候補になり、同人誌の経済は潤っていたと書かれている。なお、竹牟礼は島が金集めがうまいと言った。
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