日野西資忠とは? わかりやすく解説

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日野西資忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 20:19 UTC 版)

日野西資忠

日野西 資忠(ひのにし すけただ、1900年明治33年)12月9日[1] - 1970年昭和45年)11月7日[1][2])は、大正から昭和期の宮内官、政治家華族貴族院子爵議員

経歴

侍従・日野西資博の長男として生まれ、父の死去に伴い、1942年(昭和17年)11月、家督を継承し、1943年(昭和18年)1月15日、子爵を襲爵した[1][3][4]

学習院を経て[5]1933年(昭和8年)[注 1]明治大学専門部法科を卒業した[2][3]

1926年(大正15年)殿掌に就任[2]。その後、大礼使典儀官、寿工業書記などを務めた[2][3]

1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[6]研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

1955年(昭和30年)11月18日、京都在住旧堂上会総代として御機嫌奉伺のため参内。昭和天皇に拝謁する[7]

親族

  • 祖父・日野西光善
  • 父・日野西資博
  • 母 広子(鳥尾小弥太長女)[1][8]
  • 後妻 愛子(中村久兵衛長女)[1]
  • 養子 光忠(愛子養子、叔父・日野西長輝孫)[1]秋篠宮家宮務主管)
  • 長男 資英(すけあきら、1929 - 1966)[1]
  • 娘 光尊(旧名・公子、中宮寺門跡)[1]
  • 叔母 薫子(父の妹。1879年生。宮中女官「山茶花の局」を務めたのち村井吉兵衛の後妻となる)

脚注

注釈

  1. ^ 『人事興信録』第14版 下、ヒ4頁では昭和9年(1934年)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成 下巻』411-413頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
  3. ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』ヒ4頁。
  4. ^ 『官報』第4801号、昭和18年1月16日。
  5. ^ 『華族畫報 下』702頁。
  6. ^ 『官報』第5843号、昭和21年7月8日。
  7. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、122頁。ISBN 978-4-487-74412-1 
  8. ^ 『人事興信録』第14版 下、ナ159頁。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。


日本の爵位
先代
日野西資博
子爵
日野西家第3代
1943年 - 1947年
次代
華族制度廃止



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