日本の用水路と水稲文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 05:55 UTC 版)
以下、日本における用水路の歴史について詳説する。 古くは『日本書紀』に記された裂田の溝のように、それ以前の佐賀県唐津市の菜畑遺跡(推定年代縄文時代 - 弥生時代)や、新潟県村上市の元屋敷遺跡(同縄文時代晩期)、徳島県徳島市の庄遺跡(同弥生時代前期前半・紀元前3世紀頃)、佐賀県の吉野ヶ里遺跡、福岡県福岡市の板付遺跡などに遡る。 これらはいずれも環濠集落の跡である。空堀や土器等の捨て場として使われる環壕もあったが、上記の遺跡では溝の底から水路の底であったと思われる堆積物が出ている、幅や深さが各々 1m 前後であり用水路に適している、緩やかな傾斜が付けられている、堰の跡が見つかっているなどの状況から、灌漑用水路として使われていたと推定されている。 このように、日本の用水路の歴史は、弥生時代頃に稲作文化とともに伝来した農業用水が起源であったと推定されている。
※この「日本の用水路と水稲文化」の解説は、「用水路」の解説の一部です。
「日本の用水路と水稲文化」を含む「用水路」の記事については、「用水路」の概要を参照ください。
- 日本の用水路と水稲文化のページへのリンク