日本の学会による解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:01 UTC 版)
以下、該当部分を日本学会による通説により校訂し訳す。 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉 なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉 しかし、韓国・北朝鮮の学会では異説が主流である(次項参照)。また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。日本の歴史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に置いて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。
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