教育会存続と新制中学教育課程制作
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「塩沢隆平」の記事における「教育会存続と新制中学教育課程制作」の解説
戦後の混乱期、各地で教員組合結成の動きが盛んとなった。上小地域においても1946年(昭和21年)に小県上田教員組合が結成され、既存の教員職能団体である教育会は解散して教員組合に一本化すべき、という議論が高まった。こうした中、1947年(昭和22年)に小県上田教育会長に選出された塩沢は、教育会と教育組合は目的が異なり、一本化は不適当だと主張した。その後、教育会は昭和22年(1947年)2月に軍政部の勧告があり両者共存ということになった。昭和29年(1954年)11月校長就任(昭和22年(1947年))と同時に制作が開始された新制中学校による自主的な教育課程(昭和28年(1958年)度完了、昭和29年(1959年)度から実施)が評価され、上田市立第二中学校が、「信毎教育技術賞」を受賞する。
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