承和の騒擾
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承和4年4月16日(837年5月23日)、鳴子火山が噴火したため、陸奥国司に玉造塞の温泉石神を鎮めて夷狄を教諭するよう命じた。 承和4年4月21日(837年5月28日)、鎮守将軍匝瑳末守が、去年の春から今年の春に至るまで、百姓が妖言をして騒擾が止まず、奥郡の民が住居を捨てて逃げ出していると報告した。この報告を受けた陸奥出羽按察使坂上浄野は、栗原桃生以北の俘囚に控弦が多く、国家への反復も定まらず、非常事態が発生すれば防御しがたいので、援兵1000人を徴発して派遣することを決定し、その事後承諾を中央政府に求めている。 承和7年3月26日(840年5月1日)、陸奥守良峰木連と前鎮守将軍匝瑳末守は、奥郡の民がともに庚申年を称して逃亡する者があとを絶たないので、騒ぎを静めるため援兵2000人を徴発したことを報告している。また承和7年(840年)は干支が庚申にあたり、60年前の庚申年である宝亀11年(780年)には伊治公砦麻呂の乱が、その60年前の庚申年である養老4年(720年)には大崎平野の蝦夷反乱があったことから、奥郡騒乱は「庚申年には蝦夷反乱が起こる」との言い伝えが広まるきっかけとなった。
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