愛知県営繕課時代
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福岡県立工業学校卒業時には早稲田大学への進学を目指していたが、経済面の問題などで断念したとされている。1908年(明治41年)には実務練習先でもあった官営八幡製鐵所に入社し、工務部の官舎建築場で働いた。しかし半年後の1908年末には八幡製鐵所を退職し、愛知県営繕係(後に営繕課)の技手に転職した。愛知県営繕課には前任が福岡県立工業学校の教員だった西原吉治郎がおり、西原は自宅に大中を寄留させるなどの世話をしている。1910年(明治43年)には技手として第10回関西府県連合共進会展示場や愛知県女子師範学校を担当した。 1919年(大正8年)には鉄筋コンクリート造の愛知県立第八中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)を担当し、1921年(大正10年)には刈谷町立高等女学校(現・愛知県立刈谷北高等学校)を担当した。刈谷町立高等女学校はこの時代の女学校としては珍しく鉄筋コンクリート造の建物だった。1923年(大正12年)は愛知県立津島中学校(現・愛知県立津島高等学校)の設計も担当している。大正時代には母校である福岡県立工業学校校友会の名古屋地方幹事を務めた。
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