後秦の躍進と夏の独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:57 UTC 版)
「五胡十六国時代」の記事における「後秦の躍進と夏の独立」の解説
後秦は、400年前後の最盛期の姚興の代に周辺国(西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀)を一時的に従えた。しかし402年に北魏に大敗し(柴壁の戦い)、また西秦や後涼との抗争を続けていた407年に、配下の赫連勃勃が自立して夏を建て、騎馬を活かした攻撃を仕掛けて後秦の国力を疲弊させた。 最終的に後秦は417年に東晋の劉裕(南朝宋の創建者)が率いる遠征軍により滅ぼされた。劉裕は南燕も410年に滅ぼしており、これらの軍功をもって420年に東晋から禅譲を受けて宋を建てた。417年、劉裕が長安(後秦の首都)から東晋に引き上げると、赫連勃勃は長安を奪取し、夏は華北において北魏と並び立った。
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