後ウマイヤ朝の滅亡とタイファ時代の開幕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)
「レコンキスタ」の記事における「後ウマイヤ朝の滅亡とタイファ時代の開幕」の解説
1002年にムハンマドが死亡してから10年もたたないうちに、後ウマイヤ朝は衰退を始めた。筆頭大臣となったムハンマドの子のサンチュエロ(母はナバーラ王の娘)は、カリフの後継者を自称し、また被差別民だったベルベル人を優遇したために、多くの勢力から反感を買った。1008年、コルドバでクーデターが発生し、サンチュエロは殺され、ヒシャーム2世は退位させられた。この時、ムハンマド2世とスライマーンという2人のカリフが擁立され、なし崩し的に内乱状態に突入した。 コルドバを中心としたイベリア南部を領有するムハンマド2世と違い、スライマーンには地盤がなかった。そこで彼はカスティーリャに支援を要請し、その兵力でコルドバを攻略することに成功した。しかし、これが先例となり、各地で勃興した反乱者は北部のキリスト教勢力を内乱に引き込み始めた。内乱はますます激化し、カリフの存在は何の意味も持たなくなった。1031年、ヒシャーム3世が廃され、ついに後ウマイヤ朝は滅亡した。イベリア半島全土はタイファと呼ばれるイスラームの小国が並び立つこととなった。セビリャ、サラゴサ、トレード、グラナダ、バダホスといった主要なタイファが後ウマイヤ朝の遺領を分割し、彼らは互いに支配権をめぐって争った。
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