張瓘の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:56 UTC 版)
張玄靚の即位当初の間は張瓘が実権を握っており、張瓘は張玄靚を推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とし、自らは衛将軍として兵1万を領し、使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖公・行大将軍事となり、また宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。即位の同月の内に、隴西の李儼は前涼を離れて自立し、多くの民衆がこれを歓迎し李儼の下に集った。張玄靚・張瓘は李儼討伐の軍を送ったが、これを打倒する事はできなかった。また356年1月、張玄靚・張瓘は前秦の使者らに脅迫によって前秦への降伏を迫られ、これを受諾したため前涼は前秦の従属化に入り、張玄靚は前秦より爵位を授かった。 張瓘・張琚の兄弟は自らの勲功・威勢に驕るようになり、また兄の張瓘は賞罰を全て自らの好みで決定し綱紀を乱したため、次第に人心は離れていった。輔国将軍の宋混は忠硬な性格であったので、張瓘はその存在を恐れ、弟の宋澄ともども誅殺を目論み、遂には張玄靚を廃立して自ら王に即位しようと目論むようになった。359年6月、張瓘は宋混誅殺の為、兵数万を姑臧に集結させたが、宋混はこれを事前に察知し、弟の宋澄と共に壮士40騎余りを率いて南城へ入ると、諸陣営へ対して「張瓘が造反を企てた。太后の命によりこれを誅殺する」と宣言した。すると、すぐに2千余りの兵が集った。張瓘はこれを知ると兵を率いて出撃したが、乱戦の末に張瓘の部下らはみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・酒泉侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。
※この「張瓘の時代」の解説は、「張玄靚」の解説の一部です。
「張瓘の時代」を含む「張玄靚」の記事については、「張玄靚」の概要を参照ください。
- 張瓘の時代のページへのリンク