岡松徑とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 岡松徑の意味・解説 

岡松径

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 05:44 UTC 版)

岡松 徑(おかまつ かい、1850年 (嘉永3年)3月11日 - 1916年 (大正5年)2月21日)は、旗本出身の太政官統計院属僚の統計学者慶應義塾大学統計学教授、陸軍省大日本帝国陸軍教授。勲四等瑞宝章杉亨二呉文聡と並んで「日本近代統計学の先駆け」の一人として知られる。

経歴

嘉永3年(1850年江戸にて出生。安政6年(1859年)に佐渡奉行西丸留守居役を務めた徒頭旗本岡松久徴(伊予守)の子として生まれる。祖父の岡松久稠も佐渡奉行を務めている。

江戸の各私塾ドイツ語等を修学した後、明治9年(1876年)に太政官に出仕し、正院政表課に入局。権大書記官の呉文聡、杉亨二、世良太一、宇川盛三郎、鈴木敬治、寺田勇吉、小川為次郎と同僚になり、『日本政表』の編集に参加。1879年(明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国山梨県)で実施。政表課は1881年(明治14年)に太政官統計院と改称されるが、多くの慶應義塾出身官吏が辞職した明治十四年の政変の後も、岡松は同院廃止まで勤める。

1883年(明治16年)杉亨二らとともに「共立統計学校」を設立。1886年(明治19年)農商務省属となり、山林局に勤務。傍ら、陸軍省嘱託も兼ね、「陸吏学舎」(後の陸軍経理学校)で統計学を講義する。次いで、校長・鳥尾小弥太の下に大日本帝国陸軍教授を嘱託される。(教授陣は、杉亨二、高橋二郎、寺田勇吉、岡松の4名)。

1895年(明治28年)に慶應義塾大学部で、お雇い外国人パウル・マイエット(Mayet Paul)に次いで呉文聡と統計学講師に就任。以後は杉らと共に「東京統計協会」や「統計学社」の編集主幹等を務め、内閣統計局に嘱託した。1916年2月、厳冬の長野県で統計講習会講師を務めたが、帰京後まもなく同月21日に死去した。戒名は松壽院殿功譽博愛径善居士。墓所は四谷法蔵寺

栄典

統計学の訳語

穂積陳重によれば、「スタチスチックス」の訳名が「統計学」と定まるまでには多少の沿革があり、岡松は神田孝平の後を継いで、「統計」及び「統計学」の訳名の考証に、下出牟吉と共に参画した[2]

著書

関連項目

脚注

  1. ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
  2. ^ 日本文学研究資料刋行会 有精堂 1979年 P.75

外部リンク

参考文献

  • 岡松 径 Bibliographical Database of Keio Economists



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岡松徑」の関連用語

岡松徑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岡松徑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岡松径 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS