岡本亮彦とは? わかりやすく解説

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岡本亮彦

幕末明治画家尾州半田生。小栗伯圭の四男。通称保吉、字は士朗別に暁翠また澄神斎と号す。画を岡本豊彦の門に学び山水花鳥よくする。後に師家を嗣ぎ岡本姓を名乗る明治17年(1884)歿、67才。

岡本亮彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:54 UTC 版)

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岡本 亮彦(おかもと すけひこ、文政6年7月21日1823年8月26日) - 1883年明治16年)11月18日)は、江戸時代末期から明治初期の日本画家は亮彦、は子朗、は暁翠園、莎邨。幼名は保吉、通称は司馬。

略歴

文政6年7月21日1823年8月26日)に、尾張国知多郡半田村で、小栗半七の四男として生まれる。父・半七は伯圭と号した呉春門下十哲の一人で、寛政4年(1792年)に生まれ、天保8年5月17日1837年6月19日)に46歳で世を去った。

亮彦は幼少の頃より絵が好きで、四条派絵師であった岡本豊彦の門人となる。特にすぐれた画才があったので、豊彦が望んで自分の養子とし、自分の家を継がせた。中国地方北越を遊歴し、晩年には師であり養父である豊彦の故郷である備中国窪屋郡水江村(現倉敷市)に住んだこともある。明治16年11月18日1883年11月18日)に、加賀国金沢に於いて客死した。享年61。金沢の卯辰山に埋葬される。戒名は「澄神院畔生亮彦居士」。

写生的な中に叙情味を持たせた軽やかな筆致を見せる作風を得意とした。

代表作

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
菊図 紙本著色 襖12面 京都御所 御学問所菊の間障壁画
井出玉川・手作り図屏風 紙本著色 六曲一双 150x330(各) ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館
北勢霞ヶ浦之図 絹本著色 1幅 35.9x100.0 春星館コレクション 1868年(明治元年) 款記「北勢霞ヶ浦一望余客中一所真写也 戊辰暁夏 岡亮彦」/「亮彦」白文長方印・「伝古好今」白文長方印[1]

脚注

  1. ^ 笠岡市立竹喬美術館編集・発行 『春星館コレクション ―ある美術史家の視点―』 2017年、第25図。

参考文献

  • 安原秀魁著「画人 岡本豊彦伝(4) -豊彦と古市金峨-」(倉子城5号)
  • 京都国立博物館 宮内庁京都事務所 京都新聞社編集 『新春特別展覧会 京都御所障壁画 ─御常御殿と御学問所─』 京都新聞社、2007年1月6日



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