岐阜県陶磁器試験場時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 20:49 UTC 版)
瑞浪町立瑞浪中学校を卒業後、岐阜県立多治見工業高等学校窯業科に進学。ほどなく全国最年少の18歳で日展洋画部に入選し、「天才」と騒がれる。高校卒業後、多治見市の岐阜県陶磁器試験場(後に岐阜県セラミックス研究所)に研究生として入所。当時の試験場長は陶芸家の加藤幸兵衛(五代)。試験場に工芸科ができると、工芸の研究を始める。洋画を続けながら試験場勤務を続けていたが、25歳ころに完全に陶芸一筋の道に入る。その決断の契機となったのが、人間国宝 荒川豊蔵作の志野茶碗との出会いであった。17年間の試験場勤務中、実作活動をするだけでなく、主任技師として玉置保夫らを指導している。 その間、1962年、朝日新聞社主催・現代陶芸展課題作部にて三席入賞、日本伝統工芸展にて「志野日帯紋壺」初入選、以後同展に出品し、1966年には同工芸会正会員になっている。1967年、朝日陶芸展にて「鉄釉壺」優秀賞を受賞し、同展評議員になり、1968年の日本伝統工芸展にて「鉄釉花器」優秀賞(朝日賞)受賞し、1969年には第1回東海伝統工芸展最高賞(第一席)を受賞した。
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