山口秀景とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山口秀景の意味・解説 

山口秀景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/11 17:22 UTC 版)

山口 秀景(やまぐち ひでかげ[1]、生年不詳 - 天正11年1月12日1583年2月4日[2])は、戦国時代武将織田信長の家臣[3]仮名は甚介[4]受領名玄蕃[2]は光広、長政とも[2][注釈 1]。子に山口宗永[6]

略歴

秀景は山城国国人[7]宇治田原城[5]

当初は公家葉室家で、後に将軍足利義昭に仕え「武家御足軽」となった(『言継卿記』)[2]。その前歴より、山科言継ら公家との連絡に携わる様子が多く見られる[2]。また、織田信長との連絡役も務め、永禄12年(1569年)閏5月には美濃に派遣され、元亀2年(1571年)8月には北近江の信長の陣へと赴いている[2]

天正元年(1573年)の義昭追放後は、信長に仕えたとみられる[2]。天正3年(1575年)12月には津田宗及の茶会に出席し、天正7年(1579年)9月には宇治川平等院前に橋を架けるよう、松井友閑とともに信長から命じられた[2]。天正10年(1582年)3月には甲州征伐に従軍している[2]

同年6月に本能寺の変が起こった際は、帰国途中の徳川家康宇治田原で歓待したという[2]

天正11年(1583年)1月12日、死去(『兼見卿記』)[2]

脚注

注釈

  1. ^ 寛政重修諸家譜』では光広と長政は別人とされ、多羅尾光俊の子の光広が山口長政の娘を娶り、山口姓を名乗ったとされる[5]

出典

  1. ^ 谷口 2010, pp. 516–517; 谷口 2014.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 谷口 2010, pp. 516–517
  3. ^ 寛永系図 1984, p. 54
  4. ^ 谷口 & 岡田 2009
  5. ^ a b 寛政譜 1923, p. 1103
  6. ^ 石川県 編『石川県史 第2編』石川県、1936年、146頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184466/108 
  7. ^ 谷口 2014

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  山口秀景のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山口秀景」の関連用語

山口秀景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山口秀景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山口秀景 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS