尾崎一雄と芸術派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 08:59 UTC 版)
1933年には尾崎一雄が上落合に引っ越してきた。尾崎一雄の住んでいた長屋は尾崎の作品名から「なめくぢ横丁」と呼ばれていた。尾崎はようやく文壇に認められ、檀一雄と同居することになったのである。当地には太宰治らも頻繁に訪れ、やがて上野壮夫など当地に在住した文士もいる。 翌1934年(昭和9年)には檀一雄が「鷭」、尾崎一雄が「世紀」、上野壮夫が「現実」という雑誌をそれぞれ創刊した。かつて、プロリタリア文学の牙城であった落合文士村とは性質の異なる文学の一拠点になりつつあった。プロレタリア文学と芸術派文学の融和が試みられてきた時代であった。 この他に壺井栄、矢田津世子など落合文士村から多くの文士が巣立っていた。「人民文庫」への投稿や、「文学界」再編等があったものの、やがて落合の地を離れる文士が現れてきた。 1941年(昭和16年)の太平洋戦争が没発した頃には落合文士村という特筆すべき交流は終わったとされる。
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