小山評定と一豊の処遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 01:38 UTC 版)
翌25日、家康はまず譜代の大名に上方の情勢を知らせ、その後諸将を集めて、どちら方についてもよし、去就は自由であると言った。しかし福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らがまず相談し、三成相手の戦いであるため大坂方にはつかないということになり、また、上杉よりも石田率いる西軍を先に討つべしということになった。この後一豊が、西上のために自らの掛川城を明け渡して兵糧を提供し、譜代大名の宿にしたいと申し出たため、他の大名もこれに同意し、誓紙を差し出した。しかしこれは一豊の案というより、浜松城主堀尾忠氏の案であると『藩翰譜』には記されている。しかし、関ヶ原の戦いの後に、家康は嫡子秀忠に「山内対馬守の忠義は木の幹、他の諸将は木の葉のようなもの」と語ったことから見ると、一豊の言動が家康に与えた影響は大きかったようである。東海道沿いの豊臣方の大名の城が、家康に明け渡されたにより、東軍は優勢に進軍でき、関ヶ原の勝利がこれで確定的になったともいえる。また、豊臣古参の武将であり、年長者であり年功序列という面でも加増されたのはおかしくなく、土佐一国というのも従って、その功績への報酬もまた大きかった。土佐一国の恩賞はしごくまっとうなものだったのである。関ヶ原はあまり戦功のなかった一豊だが、論功行賞では、6万5千石から20万2600石と大きく加増された。
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